保坂和志『小説の自由』メモ
中公文庫、838円、410ページ、2010年5月。
いつものように抜き書きする。数字はページ数。
これで小説論三部作はすべてメモをとった。全部読んだほうがおもしろいのはもちろんだが、ドキッとする一行に出会えるのが保坂和志さんの魅力だと思う。
61
何らかの面白さやいわくいいがたさをそこに感じることのできない本を最後まで読み通すくらい本を馬鹿にした話はないだろう。課業と化してしまった読書は、その本に対して一種の蔑視を生み出す。
62
小説を総括的な視点で語る人は、小説に関心があるのではなく、時代や社会や、その関数としての個人に関心があるということで、せめてそのことに評者本人がもっと自覚的であってほしい。
93
「わかる」「わからない」ではなくて、何度でも聴くことがその音楽を好きだということの実践であるはず
154
小説について語るために必要なことは、ピッチャーとバッターの一球一球のかけひきと同じことが、書き手と書かれた文章のあいだで起こっているということをきちんと示すことなのだ。
166
人間はすべて他人の言葉を操作することを「考える」と称している。
185
実際、掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである。我々も、法律を尊重して生活しているが、それは法律によって自分の精神の一部を眠り込ませるためである。
186
書くという行為は、起きていることを前提としている。
189
小説は、読者の精神を寝かさないためにあるものなのだ。
228
犯罪者はさしあたり自分に都合のいい他者の言葉だけを選ぶ。だから限定された他者の言葉しか彼の中にはない。つまり他者の言葉の群れが彼の中で構築されていないということで、「本当の自分」というのは他者の言葉が構築された状態を指すのかもしれない。
229
彼が彼として生きる機会を与えることが第一に必要なことで、更生や償いはそこからしか生まれないはずなのだ。
256
タイトルは著者の所有物ではなく、それを目にしたり口にしたりする人のもので、著者が望まなくても周囲の人たちはタイトルからいくらでも小説本体に対する先入観を膨らますことができる。
本体を読めばわかると思っているのかもしれないが、読んでなおかつ先入観によっていくらでも誤読される可能性を自分自身で打ち消すことができないのが小説というものの脆弱さであって
267
「次は書けないのではないか」という不安の中で踏んばって絞り出すことが小説家にとっての力になる。
307
将棋ももちろんだが麻雀でも強い人は終わった対戦を記憶していて、「あそこはああすべきだった」「あそこであれはマズかった」と、結果ではなくてプロセスを繰り返し検証する。彼らにとって対戦とは、可能性、仮定、不確定要素の集合体なのだ。
337
事実/虚構、本当/嘘、という単純な二分法をこえたところで、事実であったとしても虚構であったとしても「記憶するに値する」「忘れることができない」「信じざるをえない」というのが、歴史書、旅行記、伝記などと小説を分けるフィクションのことだ。
375
自分を貶めて書く人は貶めることで自分という存在を正当化=肯定していて、彼らは自分がいまいる場所から動こうとは思っていない。
書くとは前に進むことだ。
390
たとえば、よくある「あなたが無人島に行くとして、そのとき持っていく本を三冊挙げてください」という質問では、質問する側も答える側も、流儀に測った型どおりのプログラムを作動させているだけで、何も考えないことのトレーニングをしているのではないか、と気づく必要がある。
391
人間というのは言葉を主体的に使っているつもりでいても、同じだけの受動性でもって言葉に使われているのだから、こういうことを繰り返しているとその人の思考のあり方自体が、実体への指向性を失うことになる。
392
意味や問いへの指向を失った小説は、小説を形だけのものにしてしまう
397
小説は小説の外にある意味がそのまま小説の中に持ち込まれることに抵抗する。ひどい体験をした人が時間を経て、少しずつその体験を語れるようになったときには、体験に対して距離が取れているように、“意味”として提示されるかぎり事態からは、脈搏つような生々しさが失われているのだ。
399
自分の居場所から出たくない人にとって、文章とは自分に引き寄せて解釈するものであって、引っ張られて自分がどこかに連れていかれるようなものであってはならない。
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