斉藤斎藤『渡辺のわたし』を読む  ~なんなの、なんだったの、ほか

斉藤斎藤さんの歌集『渡辺のわたし』をやっていきます。
なかなか勇気がでなくてできなかったんだけど、あんまり余計なことを考えずにいつも通りいきます。

読んで思ったのは、こんなに前に、00年代前半に、もうここまできていたんだなと。今は2016年になって、そのあいだにたくさんの人が新しさを求めて試みたわけだけど、ここからどれだけ進めたんだろうなってことです。


ガム味のガムを噛んでる音により自己紹介とさせていただく/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→三首目の歌。学校を舞台にした漫画ならギリギリこういう人はいそう。
キンコンカンコン、クラスに転校生がきました、「○○君、自己紹介しなさい」「クチャ……クチャ……」

不良ならギリギリいそうなんだけど、「させていただく」の丁寧さが、そういう想像をだいぶ打ち消してしまう。
それにガム味のガムってなんだ。フルーツ味とかじゃないのか。まあフルーツの味でも、ガムっぽいフルーツ味なんだけど。味と噛む音は関係しないのではないのか。
そういうひっかかるポイントがあるために、容易に型にはまってはくれない。


そんな私を変えたくなくて屋上のきかんしゃトーマスに乗ってみました/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→時給や会議の歌もあり、もう子供じゃなさそうな人がきかんしゃトーマスに乗ったという。大人が乗っていると奇妙な図だ。トーマスに維持される「そんな私」とはどんな私だろう。子供のころの気持ちを思いだしながら乗ったのか。
それにしてもトーマスのあのいかにも作られた笑顔といったらどうだ。


消費税に消費税がかからないのはどうしてだろう。バックします。/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→ああ、考えすぎるとそんな考えになってしまう瞬間があるのは、なんとなくわかる。消費税にかかる消費税、そこにかかる消費税……。鏡でも合わせているような、小さくなりながら無限につらなる消費税。車は後退し、おさまるべき場所におさまろうとしている。


慣れるちから、忘れるちからをあわせればだいじょうぶだと信じていよう/斉藤斎藤『渡辺のわたし』


背後から不意に抱きしめられないと安心してるうなじがずらり/斉藤斎藤『渡辺のわたし』

→並んでる人をだれかれかまわず背後から不意に抱きしめてやりたい、無防備なうなじを見るとそうしてしまいたくなるという気持ちがにじみでている物の見方だ。と見て勝手に共感した。


謙虚ですねとここ2ヶ月で3度目に言ったあなたのせいですからね/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→人からの評価で行動が変化してしまうことってある。けなされたときよりも、ほめられた時の行動の変化のほうが「らしくない」ことをしてしまうんじゃないか。複数回言われて、2度目までこらえて、3度目で溢れてしまったのだな。


取り組む姿勢協同組合でしたですかすみません椅子を間違いました/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→どんな活動をしてる人たちなんだろうなあ。形ばかりで無内容な団体なのでは。「でしたですか」の馬鹿丁寧さもそんな予感を裏づける。


誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→駅の歌が多い。
誰もいないことがうれしいのか、喜びをこらえていたのか。あふれるガッツには、本物の喜びがありそうだが。ちょっと見てみたい図だが、オレがいたらやらないだろう。


「七割ですか?」「はい七割です、ありがとう。あなたも」「七割です、ありがとう」/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→英語の授業でこんなやりとりを聞かされやらされた気がする。あれは「はじめまして」の挨拶だったな。
こちらはうって変わって、お互いを深く理解しあっていて、そこがコントラストを作っている。なにが七割なのかは言わずとも二人にはわかっている、はず。


どいつもこいつも無視しやがってとつぶやいて鏡を見ればおれがいない/斉藤斎藤『渡辺のわたし』


母さんがわたしのほうへなんなの、なんだったのと息をした朝/斉藤斎藤『渡辺のわたし』

→「父とふたりぐらし」は家族を扱った重い一連だ。この歌は「とうさんがかあさんをなぐる」の歌のつぎにある。
息もたえだえな状態なのだろう。言葉と息が一緒になっている。


二十首目二十一首目間、母さんとつぜん狭い風呂場へ父と/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→「父とふたりぐらし」43首目にこれがある。43首目まで来て20首目と21首目へ戻ることになる。弁当の歌と駅伝の歌の間だ。こんな連作の読ませ方(戻らせ方)初めて見た。
「東京―大阪間」みたいな言い方のおもしろさもあり、連作が高速道路か鉄道みたいだ。

母もいたのに「父とふたりぐらし」というタイトルをつけるのは、斉藤なのに渡辺という、この歌集のタイトルの付け方とも関係があるのかもしれない。

もっといえばこの作者「斉藤斎藤」の下の名前が名字みたいになっていることとも関係があるのかもしれない。
これは推測だし違ってたら申し訳ないんだけど、この方は誰かにつけられた下の名前を抹消してしまいたいのではないか。どうしても下の名前を名乗りたくない、その存在すら認めたくないなんらかの事情があるのではないか。
どうでもいいがオレは一時、家庭の事情で別の名字になりかかったことがある。

たばこ屋が自販機になり自販機が二台になるように、下の名前が名字になって二つの名字が並んだと想像してみる。
自動販売機とばあさんのたばこ屋が自動販売機と自動販売機とばあさんに/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
それでも「ばあさん」は変わらずにいるのだ。



「ありがとう」のありがとうとも聞こえつつごぼすごぼぎと聞こえつつある/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→ありがとうと言ってごぼすごぼぎと聞こえるのはやばいな。ごぼすごぼぎはむしろ殺意をもった化け物の唸りのようだ。
ベトナム人の歌の次にある。


わたし、踊る。わたし、配る。わたし、これからすべての質問にいいえで答える。/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→またやばそうなのが出てきた。やると一人で思い込みで決めて、ひたすらにやりきっちゃう人だ。すべてにいいえで答えるのって、ウソ発見器にかかる時だよな。「配る」もなんかやばい。「踊る」の自由さから、すごい勢いて離れていく。
うたうクラブで、狂気を研ぎ澄ませる方向で投稿者の歌を改作してゆく場面があったのを思い出す。

そういうウソ発見器も、とんと見なくなったなあ。「はい」であるべき問いを「いいえ」で答えると、針が大きく動いてウソだとわかるの。
"ドラキュラが狙ってる 渡辺真理アナ編"
https://t.co/yp6TunUEZm
こういうやつね。はじめに必ず「すべていいえでお答えください」って言う。



カーテンのゆれるひかりのよく見える座椅子にすわるための闘い/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→オレが見たことある座椅子は、いつかも言ったことのある裏のマサキくんの家の座椅子だ。そこはマサキくんの父親だけが座れる席だった。
あるいはしずかな快適な、だけどすこしわびしい老後の風景とも思える。


会いたくて今すぐ会いたくてとりあえず風邪薬のんでみた治った/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→風邪だけど相手に会いたくて、風邪薬飲んだら風邪が治って会いに行けるようになった、愛の力ってすごい。っていう歌かと思ったが、自分に待ったをかけた。
風邪薬で「会いたさ」がおさまったと読んだほうがいい。飲んですぐさま治るのが滑稽だ。


ずっしりとおつゆ重たいローソンのおでんぶら下げくちぶえは何故/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
→「くちぶえは何故」といえば自動的に「くちぶえは何故遠くまで聞こえるのあのくもはなぜ私を待ってるの」と出てくるんだが、そうならない人たちも増えてくるのだろう。くちぶえ、雲、アルプス、わけわからないでかいブランコ。それに比べてなんて重たいさえないローソンのおでん。
「ずっしり」「重たい」「ぶら下げ」といった言葉は、下へ下へと向かっていく言葉だ。また頭をとるとO(オー)の音が四回も連なっていて、これも重さを感じさせる一因だろう。



おわります。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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