「短歌研究」2016年9月号を読む ●短歌研究新人賞発表
短歌研究 2016年9月号。一ヶ月遅れ。
夕闇に浮くような白きトラックが人轢いてきて画面にうつる/佐佐木幸綱「アノマロカリス」
「あの日」に話及べばどの人も星みなぎらふ夜のこといふ/佐藤通雅「人類史のどのあたり」
→字足らずの初句に一字ぶんの間を感じる。さらりとは言えない特別な「あの日」だ。前の歌に「五年目」とある。東日本大震災のことだ。
オレもその日は夜空の星が印象的だった。「みなぎらふ」は言い得ている。
わたくしが立てばわが影も立ちあがり坐れば座る 自立せよ影/沖ななも「鬥」
→とつぜん無茶を言っている。自分についてくる影が鬱陶しくなったというのか。
空を見つ地を見つ空(くう)を見つめつつ負けは負けなり眼をつむりたり/沖ななも「鬥」
→反復がなんとも調子のよい歌だ。
やり場のない気持ちが目をあちこちに向けさせるのだろう。勝負の相手や審判に向かないところがそれでも潔いと思う。なんの勝負かはわからないが、わからないところが良い。
階段の手摺のなかに山桃のジュースが満ちているかのようだ/大滝和子「世界文学」
→なんという感覚だろう!
手すりは、外側から触れることしかできない。どう触れたら、どんな関わり方をしたらこう感じられるのだろう。おどろく。
美しきスローモーション再生す跳躍者は宙を味わうごとし/大滝和子「世界文学」
→「宙を味わう」に飛ぶことの陶酔がある。
「跳躍者」が特殊な言い回しだ。ここが「体操選手」だったりするのを想像すると、失うものは大きい。ほかの何者でもなく、跳躍している間は跳躍者なのだ。
短歌研究新人賞のほうにうつる。
わたしが人に優しくしたいときそっと桃の産毛のような霧雨/武田穂佳「いつも明るい」
→優しさとは、この下の句のようにささやかでこまやかなものなのだなあ。「桃の産毛のような霧雨」の上に「そっと」までついている。
温泉の湯気にさらわれ消えそうな龍子(りゅうこ)ばあちゃん目を閉じている/武田穂佳「いつも明るい」
→「龍子」って名前が目をひく。龍は伝説の、言ってしまえば架空の生き物で、ばあちゃんだし、目を閉じているのが眠りか死を想像させるし、湯気までたっている。はかなげで神秘的だ。
最初にこの連作を読んだときは椅子の木目の歌だけに印をつけた。二回目に読んだときにその印を無しにして今ツイートした二つの歌に印をつけた。
行き先は霧で見えない転轍のレバーは手探りでつかまえる/山階基「長い合宿」
→中島みゆきを感じた。転轍機のレバーで運命を変えるという内容の物語があった。
湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない/山階基「長い合宿」
故郷との距離思ひをりひとり立つコイン精米機の薄明かり/門脇篤史「梅雨の晴れ間に」
こんなにも真白きイオンの片隅に喪服は黒く集められをり/門脇篤史「梅雨の晴れ間に」
→この歌、初めて見たときから印象に残っていて、こないだ喪服売り場を通りかかったときに思い出した。きっとまた思い出すだろう。
ぎゅっとされているあいだだけ感じる愛だの恋だの君はつぶあんだの/和田浩史「an」
→あんこで連作をつくっちゃうとか、ユニークだなあ。特に和菓子に関わる仕事とかではないようだが。
この歌自体がぎゅっとされちゃってる形なのかと思ったが、ほかの歌もそんな感じだからちがうんだろう。どう切って読んだらいいのかわからないような歌が多い。
一言で言うと、「君はつぶあんだの」がウケる。
どう切って読んだらいいのかわからんっていうのは、別に否定的に言ってるつもりはないんです。わからんならわからんで、それなりに読むようにする。
サファリパークみたいに祖母が窓に手をかけて話をやめてくれない/小坂井大輔「スナック棺」
→オレのうちの近くの「スナック桜」が最近なくなってしまった。そんな感じで「スナック棺」。行きたくならない名前だ。藤子不二雄Aの作品にはありそう。
「祖母」は去ろうとしているこちらにまだ話をしたいんだろうが、こちらは相手を動物扱いだ。たくみな比喩のむこうに、二人の温度差がある。
次のかたどうぞ。の声に「あいっ」と言う 壁に気色の悪い蛾がいる/小坂井大輔「スナック棺」
→「あいっ」と言ってるのは誰かわからない。たまたま待合室に居合わせた知らないオジサンなのか、不意に出てしまった自分の声なのか。「あいっ」は変にはりきっている。気色の悪さがある。オレなんて「あいよーっ」って言ったことある。
「こんにちは」言わない子には何度でも「こんにちは」石になるまでの海/真篠未成「春の遠足」
→「石になるまでの海」に永遠に近い長い時間を感じる。挨拶させようとする力の強さに気味悪さをおぼえる。
カウンター下のゴミ箱わたししか使っていないティッシュの鼻血/山川藍「壊れないねじ」
→オレもこういう仕事やってたなーと思いだす。小さいゴミ箱がお客さんから見えない位置にあるんだよな。
鼻血のような目立つものがあると、誰のゴミなのかまるわかりで、居心地がわるい。
「愛してる」とふ台詞には黙したるをんなだわが家の蒼き鸚哥も/碧野みちる「夏来たる」
→オウムだと思ったらうまく変換できず、インコだった。
「も」にふくみがある。
死にたいと言えば殺してくれそうな母さんの手のつぼ強く押す/佐倉麻里子「家内安全」
下半身出すひとがいた夕暮れの駐輪場で一万拾う/外川菊絵「容赦なく飛べ」
床の間のフランス人形肘までの長い手袋はずしてはめる/外川菊絵「容赦なく飛べ」
→なんでそんなことをしたんだろうと思うとわけわからないし、手袋はずしたときに見ちゃいけないものが見えてしまいそうで怖い。
譜面台にうまく譜面を立てようと 悲しみのことを想像しようと/牛尾今日子
→譜面の音楽は他人のつくったもので他人の思いで、それを演奏し表現することが他人の感情への想像ともつながると。演奏をする前の段階で譜面台を立てるという動作がある。
高校のころに音楽やってたけど、譜面台に楽譜をたてるのが苦手だったな。なんかグラグラして。
ひとの悲しみ、あるいは過ぎ去った自分の悲しみを想像する微妙なむずかしさに通じる。
ストーヴに照らさるる手はうすやみにうかびいつかのバス自爆テロ/瀬笛りす
中央区納税課にて「死にたい」と言いたい人の列に加わる/那須ジョン
→「んなわけなかろう」と思ってから、だんだん「そういうことかもしれないよな」と思えてきた歌。死にたい人と、死にたいと言いたい人のちがい。
かぐひとつないへやのなか もうふいちまいにすべてのかげがおさまる/中島くり人
→たぶんオレはこの方の歌を新人賞のときにしか読んだことがない。そしてほとんど毎回○をつけている。
鉄棒で前回りして大空と大地と我をかき混ぜている/藤原さとこ
生活をつかみきれないこの頃は手相の話ばかりのラジオ/吉田奈津
→そんなラジオもあるのか。ラジオで手相って。そりゃあつかみきれない。
見たことあるお名前だと思ったら、去年のモロヘイヤの人じゃないか。
モロヘイヤいくつあってもモロヘイヤこの夏幸せなモロヘイヤ/吉田奈津
(『短歌研究』2015年9月号)
以上です。
オレですか。オレは予選通過にとどまりました。残念。短歌研究詠草もうたう☆クラブもふるわず。残念残念。
んじゃまた。
夕闇に浮くような白きトラックが人轢いてきて画面にうつる/佐佐木幸綱「アノマロカリス」
「あの日」に話及べばどの人も星みなぎらふ夜のこといふ/佐藤通雅「人類史のどのあたり」
→字足らずの初句に一字ぶんの間を感じる。さらりとは言えない特別な「あの日」だ。前の歌に「五年目」とある。東日本大震災のことだ。
オレもその日は夜空の星が印象的だった。「みなぎらふ」は言い得ている。
わたくしが立てばわが影も立ちあがり坐れば座る 自立せよ影/沖ななも「鬥」
→とつぜん無茶を言っている。自分についてくる影が鬱陶しくなったというのか。
空を見つ地を見つ空(くう)を見つめつつ負けは負けなり眼をつむりたり/沖ななも「鬥」
→反復がなんとも調子のよい歌だ。
やり場のない気持ちが目をあちこちに向けさせるのだろう。勝負の相手や審判に向かないところがそれでも潔いと思う。なんの勝負かはわからないが、わからないところが良い。
階段の手摺のなかに山桃のジュースが満ちているかのようだ/大滝和子「世界文学」
→なんという感覚だろう!
手すりは、外側から触れることしかできない。どう触れたら、どんな関わり方をしたらこう感じられるのだろう。おどろく。
美しきスローモーション再生す跳躍者は宙を味わうごとし/大滝和子「世界文学」
→「宙を味わう」に飛ぶことの陶酔がある。
「跳躍者」が特殊な言い回しだ。ここが「体操選手」だったりするのを想像すると、失うものは大きい。ほかの何者でもなく、跳躍している間は跳躍者なのだ。
短歌研究新人賞のほうにうつる。
わたしが人に優しくしたいときそっと桃の産毛のような霧雨/武田穂佳「いつも明るい」
→優しさとは、この下の句のようにささやかでこまやかなものなのだなあ。「桃の産毛のような霧雨」の上に「そっと」までついている。
温泉の湯気にさらわれ消えそうな龍子(りゅうこ)ばあちゃん目を閉じている/武田穂佳「いつも明るい」
→「龍子」って名前が目をひく。龍は伝説の、言ってしまえば架空の生き物で、ばあちゃんだし、目を閉じているのが眠りか死を想像させるし、湯気までたっている。はかなげで神秘的だ。
最初にこの連作を読んだときは椅子の木目の歌だけに印をつけた。二回目に読んだときにその印を無しにして今ツイートした二つの歌に印をつけた。
行き先は霧で見えない転轍のレバーは手探りでつかまえる/山階基「長い合宿」
→中島みゆきを感じた。転轍機のレバーで運命を変えるという内容の物語があった。
湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない/山階基「長い合宿」
故郷との距離思ひをりひとり立つコイン精米機の薄明かり/門脇篤史「梅雨の晴れ間に」
こんなにも真白きイオンの片隅に喪服は黒く集められをり/門脇篤史「梅雨の晴れ間に」
→この歌、初めて見たときから印象に残っていて、こないだ喪服売り場を通りかかったときに思い出した。きっとまた思い出すだろう。
ぎゅっとされているあいだだけ感じる愛だの恋だの君はつぶあんだの/和田浩史「an」
→あんこで連作をつくっちゃうとか、ユニークだなあ。特に和菓子に関わる仕事とかではないようだが。
この歌自体がぎゅっとされちゃってる形なのかと思ったが、ほかの歌もそんな感じだからちがうんだろう。どう切って読んだらいいのかわからないような歌が多い。
一言で言うと、「君はつぶあんだの」がウケる。
どう切って読んだらいいのかわからんっていうのは、別に否定的に言ってるつもりはないんです。わからんならわからんで、それなりに読むようにする。
サファリパークみたいに祖母が窓に手をかけて話をやめてくれない/小坂井大輔「スナック棺」
→オレのうちの近くの「スナック桜」が最近なくなってしまった。そんな感じで「スナック棺」。行きたくならない名前だ。藤子不二雄Aの作品にはありそう。
「祖母」は去ろうとしているこちらにまだ話をしたいんだろうが、こちらは相手を動物扱いだ。たくみな比喩のむこうに、二人の温度差がある。
次のかたどうぞ。の声に「あいっ」と言う 壁に気色の悪い蛾がいる/小坂井大輔「スナック棺」
→「あいっ」と言ってるのは誰かわからない。たまたま待合室に居合わせた知らないオジサンなのか、不意に出てしまった自分の声なのか。「あいっ」は変にはりきっている。気色の悪さがある。オレなんて「あいよーっ」って言ったことある。
「こんにちは」言わない子には何度でも「こんにちは」石になるまでの海/真篠未成「春の遠足」
→「石になるまでの海」に永遠に近い長い時間を感じる。挨拶させようとする力の強さに気味悪さをおぼえる。
カウンター下のゴミ箱わたししか使っていないティッシュの鼻血/山川藍「壊れないねじ」
→オレもこういう仕事やってたなーと思いだす。小さいゴミ箱がお客さんから見えない位置にあるんだよな。
鼻血のような目立つものがあると、誰のゴミなのかまるわかりで、居心地がわるい。
「愛してる」とふ台詞には黙したるをんなだわが家の蒼き鸚哥も/碧野みちる「夏来たる」
→オウムだと思ったらうまく変換できず、インコだった。
「も」にふくみがある。
死にたいと言えば殺してくれそうな母さんの手のつぼ強く押す/佐倉麻里子「家内安全」
下半身出すひとがいた夕暮れの駐輪場で一万拾う/外川菊絵「容赦なく飛べ」
床の間のフランス人形肘までの長い手袋はずしてはめる/外川菊絵「容赦なく飛べ」
→なんでそんなことをしたんだろうと思うとわけわからないし、手袋はずしたときに見ちゃいけないものが見えてしまいそうで怖い。
譜面台にうまく譜面を立てようと 悲しみのことを想像しようと/牛尾今日子
→譜面の音楽は他人のつくったもので他人の思いで、それを演奏し表現することが他人の感情への想像ともつながると。演奏をする前の段階で譜面台を立てるという動作がある。
高校のころに音楽やってたけど、譜面台に楽譜をたてるのが苦手だったな。なんかグラグラして。
ひとの悲しみ、あるいは過ぎ去った自分の悲しみを想像する微妙なむずかしさに通じる。
ストーヴに照らさるる手はうすやみにうかびいつかのバス自爆テロ/瀬笛りす
中央区納税課にて「死にたい」と言いたい人の列に加わる/那須ジョン
→「んなわけなかろう」と思ってから、だんだん「そういうことかもしれないよな」と思えてきた歌。死にたい人と、死にたいと言いたい人のちがい。
かぐひとつないへやのなか もうふいちまいにすべてのかげがおさまる/中島くり人
→たぶんオレはこの方の歌を新人賞のときにしか読んだことがない。そしてほとんど毎回○をつけている。
鉄棒で前回りして大空と大地と我をかき混ぜている/藤原さとこ
生活をつかみきれないこの頃は手相の話ばかりのラジオ/吉田奈津
→そんなラジオもあるのか。ラジオで手相って。そりゃあつかみきれない。
見たことあるお名前だと思ったら、去年のモロヘイヤの人じゃないか。
モロヘイヤいくつあってもモロヘイヤこの夏幸せなモロヘイヤ/吉田奈津
(『短歌研究』2015年9月号)
以上です。
オレですか。オレは予選通過にとどまりました。残念。短歌研究詠草もうたう☆クラブもふるわず。残念残念。
んじゃまた。
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