加藤治郎『サニー・サイド・アップ』を読む  ~真っ青な絵具のチューブ、ほか

加藤治郎さんの歌集『サニー・サイド・アップ』を読む。
第一歌集。1987年。雁書館。




見たことのある歌がとても多かった。

マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股(もも)で鳴らして

もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに

バック・シートに眠ってていい 市街路を海賊船のように走るさ

荷車に春のたまねぎ弾みつつ アメリカを見たいって感じの目だね

ほそき腕闇に沈んでゆっくりと「月光」の譜面を引きあげてくる

ブリティッシュ・ブレッド・アンド・ベジタブル あなたにちょっとてつだってもらって

鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡 

ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち

ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら

ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで


……といった歌は、歌集を読む前からたびたび見かけていて、すっかり馴染んでいた。
ここではそれ以外の歌を見ていく。





何かぼくに話しかけてる横顔と薔薇をうつしてくらき車窓は/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→車窓にうつった自分の顔を見たりすることがあるが、ここでは、「ぼくに話しかけてる横顔と薔薇」がうつっている。
話しかけられているのに「何か」としか理解せず、そちらを見ないで暗い車窓のほうを見ている。そこに二人の関係性がうかがえる。薔薇があるので、恋人同士のように思える。


ゆびさきがしろくなるまできみの腕つかむ黄いろいテレフォンの上/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→「ゆびさきがしろくなるまで」とは、かなり力の入ったつかみかただ。指先の白に対して、電話の黄色は力がはいって変色することなどなくいつでも黄色だ。二人には温度差がありそうだ。


てのひらにガラス細工の動物の溶けはじめるよ幸せだったよ/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→「幸せだったよ」が動物の最期の台詞のようだ。溶けてそのまま死んでしまうのですが、愛する者の手のなかで死ぬ。

あるいは、てのひらの持ち主が「幸せだったよ」と言ってるとも読める。握ったものが溶けだすほどの気持ちでいる。


砕けてもぼくの体がわかるなら母よ真っ青な絵具のチューブ/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→戦争のにおいのする一連のなかの歌。砕けるのは戦死を意味するのだろう。青は海や空の色。チューブは絵のなかの海や空になっていくけど、砕けた体は世界のなかの何になってゆくのだろう。


きみの写真を見ているぼくの写真ジョン、ジョン、わかったよぼくが誰だか/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→「チャップマン」という一連から。チャップマンは、ジョン・レノンを殺害した人だという。

オレはそのへんはあんまりよく知らない。チャップマンで調べると野球選手が先にでてくる。


銀色の傷もつ古き音盤の I never,I never,I never……/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→レコードに傷があって同じ部分が反復されている。銀色の傷は心にできた傷のようでもある。古い、ある一瞬が永遠のように繰り返される。


切られてもなお淡紅(たんこう)の花ひらくカーネーション 国語教師になると/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→何かの夢が叶わずに国語教師になったんだと読んだ。それが切られても咲く花のようだと。
カーネーションは、オレには母の日のイメージしかないけど、もっと広がる見方がありそう。


故郷のこころたとえば初夏の中日球場内野席かな/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→そうそう! そうだよな! ……とオレは残念ながら思わないんだけれども、いろんな故郷のこころがあるんだなと思っておもしろく読んだ。自分の場合はどうかなあと。


弾き終えて去りゆく奏者羨しきを鈍き音たて反転するテープ/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→「鈍き音たて反転するテープ」に時代を感じた。カセットテープ、あったなあ。A面からB面にうつるときの音だ。
奏者は演奏を終えたのに、テープはあと半分だという。

時代といえば、カタカナが古めかしい歌集だと思った。今とは少しカタカナ語が違う。
たとえば「・」の使い方。「ジン・トニック」「ロッキング・チェア」「ニュース・ペーパー」「ミネラル・ウォーター」


映像はモザイクの羅にさえぎられ教員なのか捩(よじ)れて笑う/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→モザイクがあることで、それが映しちゃいけないおぞましいものになる。
モザイク越しに分かる教員らしさとは。何がそんなにおかしいのか。


逃げまわるぼくたちに合うヘルメット サラダボウルのようなやつだよ/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→何から逃げているんだろう。「ようなやつだよ」に幼さがある。草食男子という言葉はもっとずっと後の言葉だが、このサラダボウルには気力の乏しさがうかがえる。
でも「逃げ回る」ってなかなかしたたかだとも思うんだよね。隠れてうずくまっているのとは違う。
ヘルメットから連想されるものもある。
幼稚で弱そうで、でも意外としぶとそう。


昨夜きみが教えてくれた 百体の裸婦像のなか少年あゆむ/加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
→「きみ」がなにを教えてくれたかというのは、裸婦像にあらわれているのではないか。
百という数の多さ、生身の人間ではなく像であることが現実離れしている。たった一人の「きみ」とはかけ離れている。理想と現実のギャップ?




この歌集からは以上です。
んじゃまた。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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