「塔」2015年7月号を読む【1】塔新人賞、塔短歌会賞  ~名を変へて旅立ちたれば、ほか

塔 2015年7月号。

月集、塔新人賞、塔短歌会賞、作品1までをここでやる。



月集から。

このたびのわが判断のかがやきて夫の腸に管の沈みぬ/落合けい子


甲子園に来るたび思ふ生ビール背中に背負(しよ)ひてビール売りたし/亀谷たま江

→なかなかおもしろい願望なのでは。飲む方でなく売る方というのは。
正確な名称がわからないためなのかもしれないが、「生ビール背中に背負ひて」も思い切りがいい。売りたいと同時に、背負ってみたい願望でもある。


顔見せに来ただけと云いすぐ帰る高速道路二〇〇余㌔を/栗山繁
→「㌔」を詠草のなかで初めて見たかも。
前後を見ても状況はわからない。誰が帰ったのか、自分が帰ったのか。どんな心境なのか。距離ばかり大きい。


飲物の紙パツクを丹念に折りたたみ屑籠に捨つ皺ばみし手に/田附昭二
→「皺ばみし手」がポイントなのだろう。捨てられるパックはきちんとしていて、これからも使いつづける手はシワシワしている。


名を変へて旅立ちたればもう父でないかも知れず雲の向かうに/干田智子
→この前の風炎集のつづきとして読んだ。
連載のような、大きな大きな連作を毎月少しずつ読んでいるみたいな感じだ。
そういう人が塔に何人かいる。今月はどうなっただろうと思いながら読む人がいる。


「おーぃお茶」並び立つ見ゆその名ゆゑ選ばれたるや男の会議に/村上和子
→定着していてあまり考えなかったが、「おーいお茶」はユニークな商品名だ。名前によって買う人の性別が左右されることはあるかもしれない。「男の」にピリッとしたものが含まれている。

「おーぃお茶」という表記が気になる。ちょろっと検索してみると、「お~いお茶」が正確なようだが「おーいお茶」という表記も多いようだ。ボトルの絵を見るとたしかに「い」が小さいように、見えなくもない。



新樹集

ドストエフスキーの冗談に笑いつつ洗濯ものの乾かない午後/木村珊瑚
→ドストエフスキーの冗談には毒があったり、なにか腹の底からは笑えないものが含まれている。カラッとした笑いではない。そのあたりが洗濯ものに反映している。


「死を願うほどの痛みはわかるまい」怒りて言いき我を見据えて/青井せつ子



百葉集

われよりも若いのだろう木に登るむかし語りの花咲か爺/歌川功
→むかしの人は寿命が短いときく。それに、花咲か爺さんの場合は木に登るくらいの元気がある。
タレントを見て「あの人よりも自分は年上なんだな」と感じたりするオレだが、昔話のおじいさんにそれを感じている人もいる。
……って書いてから、下の百葉箱を見たら選評として似たようなことがもっとうまく書かれていた。



作品1、栗木欄

恋人にあらぬ証は海見つつ会話の切れぬ姉とおとうと/朝井さとる
→なるほど、切れることなく会話するところが恋人でないという。
ちょっとねじれがある。「証は」の「は」かな。


子どもなるわれを迷子にせし夏の祭りも町も消えゆくならむ/首藤よしえ
→大事な思い出が消えてゆくさみしさがある。祭りは地域と関わりがあるから、消えるときは一緒に消えるだろう。
逆に、町や祭りがあれば過去の自分もどこかに残っているような気もする。




塔新人賞
これがあるから読むのもツイートするのもなんだか億劫だったんだけど、やる。

側溝に落ち葉がつもる 外国のベジタリアンがなんだかこわい/阿波野巧也「冬の炭酸」
→側溝からしたら、落ち葉は異文化のようなものかもしれないね。


橋をわたると少しちがっている町の遠くにもきている十二月/阿波野巧也「冬の炭酸」
→位置関係がよくわからない感じがおもしろかった。
橋をわたって、ある町からべつの町になると、「少しちがっている」。そういう感覚はあるかも。どこが違うというわけじゃないんだけど、なにかがあるんだよ。

「遠くにもきている」がどこなのかわからない。橋をわたってきたんだけど、さらにその方向へ行ったところなのか、そうじゃないのか。
「十二月」。季節の違いとかを感じるならばもっともっと北上したり南下したりしなきゃわからないはずなんだけど、ここでは橋ひとつというこまやかさだ。

その橋ひとつという距離と、よくわからない「遠く」が立体感をだしているんだ。
町のちょっと違う感じと、季節の変化。


上終町(かみはてちょう)という名の町で降りたけどそうでもなくて歩いて帰る/阿波野巧也「冬の炭酸」
→これも町の雰囲気の歌。名前から想像されるような何かがあるような先入観があったのだろう。地名のおもしろさ。
行きは乗り物に乗ったが帰りは徒歩、というのはテンションの違いを感じさせる。


幾つかの言えないことをそのままに いちご透けてる苺大福/小川ちとせ「あかるい仕事」
→テーマがあってきれいにまとまった連作だなあと思った。
この歌は苺大福のいちごが心のようだ。


柚子がまた庭に色づく亡き母の採れる高さと採れぬ高さに/北島邦夫「ふじいろスリツパ」
→亡くなっても母の背丈をわかっているところに母との結び付きの強さを感じた。


火葬場に向かえば途中見えてくる公園、サイドスローの少年/廣野翔一「泥と式場」
→から次の歌へのつなげかたが面白かった。家族や葬儀の歌のなかに関係ないものがでてきた、と思ったらそれが回収される。


大縄に入ってゆけぬ少女いて土たたく音ゆるびてゆけり/福西直美「椅子」
→こんな経験ある。入っていきやすいように大縄跳びの縄はゆっくりになっていく。


鉄棒を握った両手のじんじんとしびれるように夕陽の沈む/福西直美「椅子」
→これもまたなつかしい感覚。鉄棒を握っているとじんじんする。それが夕陽の沈むさまにかさねられる。
→これもまたなつかしい感覚。鉄棒を握っているとじんじんする。それが夕陽の沈むさまにかさねられる。



塔短歌会賞

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の/千種創一「認めることの雪について」
→あるね。画像でとるつもりが動画になること。動画と「ビデオ」のわずかなずれ。
短さがなんだかいとおしいなあ。間違ってるのに。「海」も詩的。
「、」でこまかく区切られる様子が、録画されすぐに停止される撮影のよう。


母も我も小さき子どもにもうなれず硬き林檎を疲れつつ食む/小林真代「雪を見にゆく」
→林檎を食べるのが疲れるというのに共感したということで丸つけた。
離れた親戚と仲がいいのは羨ましい。オレのところはそうじゃないので。


なめらかに一回りする秒針ととくとくと音立つる秒針/白石瑞紀「本のかたちで」
→秒針の動きかたが違うと時間の流れかたも違って感じられる。よく時計の音は「カチコチ」などと表現されるが、ここでは「とくとく」。これは生き物の体内の音のようでもある。


初めての呼吸(いき)するやうに指揮棒はうごき始める舞台の央に/吉澤ゆう子「声よりも」


もうすでに洗ふべき手だ冒頭のff(フォルテシモ)に今し入りゆく/吉澤ゆう子「声よりも」

→楽器を演奏するときの手の汚れ、気にしたことなかったなあ。相当汚れながらの演奏だ。これからフォルテシモということはまだまだ汚れそうだ。
前の歌に「わがチェロ」とある。


塔短歌会賞おわり。だいぶ経つけど、オレは全然だめだったし他の方はうまいこと連作をつくるしで、ジクジクとしたものが胸のなかにある。



作品1、真中欄

留守電に喋るに馴れて冗談のフレーズ一つを加へてみたる/尾形貢
→オレは留守電苦手だし簡単な最低限のことしか言えないなあ。それを考えると、「やるなあ」と感心する。


さう言へば父も借金してゐたと感慨持てど妻には言はず/千名民時
→少し前に金銭トラブルに関する歌を発表してらっしゃったのでその後が気になっている方だ。
これを「妻」に言っても共感されないだろうし、借金の正当化のように見えてもよくない。


今朝はえた茸のやうな耳をして教科書開く隣席の男子/清水弘子
→キノコだけど「今朝はえた」ところがフレッシュで、例えがかわいらしい気がする。



つづく。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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