「なんたる星」2015年6月号を読む  ~炊き出しを待つ人の手、ほか

「なんたる星」6月号。

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オレはわけあってこれを三回もダウンロードしている。ダウンロードして、スマホがこわれてそれが消えて、代用機でダウンロードして、修理のおわったもとのスマホになるときにまた消えたからダウンロードした。


ありがとうございましたと平等院鳳凰堂からリプライがくる/伊舎堂仁「「そこのみにて光輝く」の感想、その他の短歌」
→こういうことがツイッターでは当たり前のようにあるわけで、おもしろくも変な空間だと思う。平等院鳳凰堂からお礼を言われるなんて。
それも、別になんの変哲もないリプライだから、余計に平等院鳳凰堂の異様さが浮き上がってくる。


風船とセックスをして風船と選挙に行ってアイロニカルかよ/ナイス害「タンバリン鳴らしてよ」
→風船とそんなことはしないから、この風船とは、風船に象徴されるほかの何かかもしれないと思わされる。たとえば、風船のように太った妻であるとか。
だがこの「アイロニカルかよ」はそんな読み方を拒絶しているようにも見える。
風刺的な役割を持つものとして風船が用いられているような気もするが、それでもどうもうまく機能しなくて、どう解釈してもしっくりしない風船で、気になる。後をひく歌だ。


どこまでも伸びるアンテナ炊き出しを待つ人の手にふれてきたんだ/恋をしている「こんな携帯電話はいやだ」
→二句切れで、対比をつくっている歌と読んだ。
どこまでも伸びるアンテナとは、遠くのものを受信し見聞きできるようになっていくということだ。
その一方で炊き出しを待つ人の手にふれるというのは、実際に現場に行って実感してきたということ。

炊き出しを待つというのは、普通の暮らしではない。非常時かもしれない。
手にふれるとは、握手でもしたのかそばを通っただけなのかわからないが、とにかく接触したのだ。それはどこまでアンテナを空にのばしても感じられないことだ。


そのまま死ねばいいんじゃないかと思ったりすると煙はばっちりゆがむ/米田一央「バイキングでシソを食うなよ」
→自分のなかに悪意が芽生えると世界のほうもそれを察知する、ような気がすることもある。それを証拠づけるような決定なことではなく、煙がゆがむくらいの微細なこととしてあらわれているのがリアル。


おかあさんに泣きながら「おかあさんわたし、わたしを忘れたい」と言ったときのわたしはどちらかというとおかあさんだった/加賀田優子「すぐくる」
→「わたし」と「おかあさん」には、どちらかがどちらかになりそうなくらいに密接な関係がある。
自分自身を忘れてしまいたいなんて、追い詰められた危機的な状況だろう。おかあさんに助けを求めているが、そんな時にその「おかあさん」と「わたし」の境目は曖昧になる。

なんでそうなっちゃうのかわかんないけど、とにかく本気な感じがして圧倒的だった。定型からはみ出しまくっていることに、なりふりかまわない感が出ている。
「わたし」はどうなってしまうんだろう、「おかあさん」はこれをどうするんだろうと心配になる。



直泰さんの「無い」。良かった。
こういう恋愛とかの角度からではないけど、オレは自分だけ「核」みたいなのがないふざけた人間なんじゃないかと思うことがしばしばある。



以上です。んじゃまた。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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