「短歌研究」2014年2月号を読む  ~百枚のまぶた、ほか

短歌研究2014年2月号。



巻頭作品

ひたすらに玉を固める「穴熊」の流行る盤面どこか疎まし/小高賢「どこか疎まし」

→玉は「たま」かと思ったら「ぎょく」だ。二つ前に「法案通る」という歌があるので、政治的な歌にも読める。権力者をみんなでかくまっている。



窓を背に語る上司のこめかみを右クリックしてみたき黄昏/田村元「あくびの骸」

→パソコンで仕事したことないからわかんないけど、そういうふうに感じられるんだろうか。右クリックはキャンセルなんだよね確か(それすら曖昧なレベルのパソコン音痴だ)。








ゆふべきてパチンコ屋の前をわがとほるパチンコ屋の前は雨ふるごとき/上田三四二『照徑』

→これは花山多佳子さんの小野市短歌フォーラム講演再録というのから。
滝みたいだと感じたことがある。雨のほうが詩になるなあ。かなしげだ。









身めぐりをうたう


はらわたをさらすがごとくドアひらき総武線、中央線の客ら交らふ/栗木京子『水仙の章』

→グロテスク。電車が生き物だとすると乗客はその体内に密集している何か、……何かだ。総武線と中央線について知ってるともっと面白いのかもしれない。

「身めぐりを歌う」という特集でこの歌について書いている佐田公子さんは「人間の営みを冷静に見つめ、いとおしむこの心に共感する読者も多いことだろう。」と言う。オレとは違う見方がある。




雪舟えまさんは超能力のことを書いている。「身めぐりをうたう」で超能力って。超能力は非日常だろう、身めぐりなわけない。と思って読みすすむと、超能力への強い思いが語られていて、この人にとっては超能力こそが「身めぐり」であることがわかる。

「ここで一曲歌います」と歌の歌詞を書いている。「おんなのねぶり箸」ってタイトルもすごい。故郷への愛をせつせつと語るが、その舞台が地球と海王星であるという謎のスケールのでかさだ。
「びっくりするよ」がいい。



雨の夜ひと差し指を折り曲げてちいさな橋をひとつつくった/五島諭『緑の祠』

→永井祐さんがあげている歌。

ひとさし指の曲がる範囲は限られている。いくらでも自在に曲がってどんな形でもつくれるわけではない。橋みたいに、なるだろうか。
橋には何かと何かをつなげる役割があるが、この橋はどんな橋なのだろう。

というような気になる点はあるが、これは永井さんの言う「個人性の強い重力下にある場」というのが可能にしているそうだ。
オレはこの言い回しがわからないんだが、つまり、「この人のなかではそうなのだろう、橋だと言ったら橋なのだろう」ということだと理解した。

雨の夜というだけでさみしい暗いものを予感する。そのなかで、自分の身体を確認している。その確認された身体から他のなにかへとつながるものを発見している。
自分で書いててわかんなくなりそうなんだが、この「橋」は明るさになっていると思う。

いいものだとは思ってるんだけど、どう読んだかを書こうとすると難しい。



「相聞・如月によせて」からいくつかいってみましょう。


きみの名をつけた勇者がちからつきはかなくなるを目にきざみをり/山木礼子「生活」

→RPGの勇者に恋人か誰かの名前をつけて、そのキャラが死んだのをみている。
内容だけならすでにありそうなんだけど、仕上がりを見た。
「目にきざみをり」。ゲームの中の死へのまなざしが濃い。



「歯を磨きながら死にたい」「心を洗いながら死にたい」「死にたい」/瀬戸夏子「純粋な勝負は存在しない」

→三つの「死にたい」からなる。歯を磨くのは肉体の浄化、心を洗うのは精神の浄化。浄化に向かいながら生を終えたいという願望がある。
最後の「死にたい」は、死そのものがなによりの浄化であることを示しているのではないか。
だから、この「死にたい」は「浄化されたい」ということなのではないか。




翼竜の飛行のごとく蘇る疎まれながら愛した記憶/松村由利子『薄荷色の朝に』

→柴田さんの「スマートなイメージ」と真逆な読みをしていた。
翼竜ってことは、鳥なんかよりずっとでかい重い生き物だ。飛ぶ時だって存在感があるに違いない。羽ばたけばバサッバサッと音がしそうだ。そのような不穏さとともに蘇る記憶なのではないか。




作品季評は、堂園さんの歌集への幸綱さんのわからず屋ぶりが目立つ。
実はオレはそのへんが怖くて読めてない。秋茄子がわかるかわからないかで「線を引かれて」しまう気がして。もしオレがわからない側だったら、もう若くないんだなあ、って。
若くないっていうか、読む力がないっていうか。試されてる感があって。笹井さんなんかの時もそうだった。「これがわからなかったらあなたは詩のわからない人です」みたいなの怖い。



秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

→オレは八百屋やってるけど、ナスって黒いよねえ。あの色は野菜の中でも目立つ。黒くて光っていて手のひらにおさまる。ナスの黒が死を思わせつつ、ナスの光が死の中の生を思わせる。
あんなに黒いのに、それによってはじめて新鮮なんだ。光るのはとくに新鮮なナス。
ナスのビジュアルはほんとに不思議だと思っている。「人は死んだらこうなります」とナスを見せられたら「はあ」って言いそう。夢のなかなら。



「触って握る君の手のひら」の歌はわかんないなあ。あとは、なんとなくはわかるけど、ほんとにそうなのかがわかんなくてぶらぶらしてるのが多い。



死ぬ気持ち生きる気持ちが混じり合い僕らに雪を見させる長く/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

っていうのに丸した。
オレ自身が、生きることを迷った時期があったのを思いだしつつ。



「最近刊歌集・歌書評・共選」から。


コンビニへ黙って入り出で来たり我は尾などを曳きておらぬか/石川満起乃『ひとすじの糸』



一面に点のみ残るメモ用紙卓上にありある夜の電話/高松可祝『道祖土』


→その点が会話のいかなる部分もしめさないこと。つながった線ではないことに意味を見ようとすればできる。また、宇宙にちらばる星みたいでおもしろい。



百枚のまぶたつぎつぎ閉じられてもう耳だけの町となりたり/久野はすみ『シネマ・ルナティック』

→耳は閉じることができないとはよく言われることだ。(ふさぐことはできても)

みんなで耳をすませているようで神秘的。



くすぐりの刑を妻に施してそののちふたりしずかになりぬ/室井忠雄『柏の里通信』



短歌研究詠草やうたうクラブからは特になく、この本はこれでおわり。

今回もオレの短歌研究詠草は1首だった。うたうクラブは星つかず。いいところがない。また来月。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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