角川「短歌」2013年4月号を読む  ●特集「31文字の扉」ほか

角川短歌4月号を読んだのでいろいろ書いていきます。






「保存版大特集 31文字の扉」。最近の角川短歌は、特集に関して書くことが大げさだ。前には「決定版」というのもあった。決定したり保存したりするかどうかは読者が決めることだ。大特集とあるが、ふつうの特集とそう違わない。
日本のことを「大日本帝国」と言ったりするのはこれに近い心理なんだろうかと考えたりした。

中身を見ます。




演奏会終はりて小雨ヴァイオリン弾きゐし人のこゑを知りたし/栗木京子

→三月号の歌ということだけど、見逃していた。
小雨がいい。聞こえるか聞こえないかの音で降るわけでしょう小雨は。




小池光さんが提案してる。『一読ただちに誰にでも分かるように作る』ことを当たり前のこととして言ってる。
これはなかなか言えそうで言えないんじゃないですか。なんかスカッとする。と同時に反省もする。

その逆で、わからなくてもなんとかわかろうとしなきゃ、歌に対して頑張って取り組まなきゃ、投げ出してはいかん、っていうのは今までよく感じてきた。



かなしめる昨日もなかば透きとおり一万枚の窓、われに見ゆ/内山晶太

→一万枚。一万って、生きてきた日数のことかと思う。一日が一枚の窓ね。透きとおるのは、記憶が薄れていく、この場合はかなしみが薄れていって透明になるのかなあと。




をりふしに矢印ありて矢印に従ひ都市をわれ流れゆく/高野公彦




じゃまたと1Fを押す、もの凄い速度できみは昇天したり/加藤治郎


→エレベーターかと思ったんですよ。1階で昇天ってことは、地下にいたのかなあと。エレベーターに乗ったのは「きみ」かと思ったけど、主体が乗ったとも読める。その場合は上の階から1Fに向かったわけだ。

「昇天」ってなんだかあの世に行くみたいな言い方だ。そう考えると、エレベーターじゃないものが思い浮かぶ。たとえば、棺のようなもの。オレは本物を知らないんだけど、ボタンを押すと火葬がはじまるシステムがあるらしいじゃないですか。「1F」のボタンがそれに重なってくる。

エレベーターって「もの凄い速度」でしょうかね。そういうところもなんかひっかかる。ただのエレベーターでの別れの歌じゃない気がする。
「、」は、ボタンのような、ちょんってボタンを押す動作のような。

最初の「じゃまた」の音数もそうだけど、ひっかかるポイントがいくつも用意されていて、考えるほどにこんがらかる歌だなあ。こういう術なのかしら。




いよよ濃き闇、死の年の自画像もレンブラントは黒服を着て/佐佐木幸綱




大島史洋さんの「現代の名歌一○○首選」。百人一首を現代の歌でやろうみたいな試みはたくさんありそうだし、これはどんなつもりで選んだのだろう、説明もなにもないけど、なにかこだわりがあるのだろうか。

選ばれた歌を読んでまず気がつくのは、どうやら現在生きてる人の歌だけを集めたらしいということだ。「現代」がどこから始まるのかはいろんな考え方があるので。
もうひとつは、あまり難しい言葉が出てこないことだ。「31文字の扉」ということで、入門者に配慮したのか。読みやすい。それでいて、かなり知らない歌が多かった。一割ほどしか知らなかった。




ワイシャツは波に洗われそこにいた人の姿をしておったのだ/福島泰樹『血と雨の歌』




教会の影は芝生を移りつつこの公園から出ることはない/香川ヒサ『The Blue 』


→ただの発見の歌ともとれるけど、教会にはキリスト教のさまざまなイメージがつきまとう。その教会の、影。影には暗い、裏側のイメージ。公園は、人びとが集う場所。「この公園」ってことは、その公園の中からこの歌は届いてきている。
キリスト教には汚点もあるが、それは人間のやったことであり、けしてその外のものではないと。公園というのが人間の世界で、神の世界は「公園から出」たところにとある、と読んでみた。




おまへにはいつぺん言ふておかねばと仏は足を組み変えたまふ/小黒世茂『やつとこどつこ』




玄関のここにこうして手を置いて母が見ていた暗き靴底/今井恵子『やわらかに曇る冬の日』


→「ここにこうして」。そう言われてもどこにどんなふうにしていたかはわからないわけだが、一緒にその家の玄関にいるみたいな手ごたえが感じられる。




モグラの目が地中で退化したやうに心は都市で退化するのさ/山田航『さよならバグ・チルドレン』

→一見うまいこと言ってるんだが、かっこつけすぎというか、どうもずれてるようでおかしみがある。







大松達知さんの歌壇時評

朝はアテネ、夕ぐれはパリ、雨の日は蘇州を映し小窓かかれり/原賀瓔子

からいこう。

これ、かんたんではない歌だと思った。
飛行機を想像した。うちの窓はみんな小窓じゃなくて大きいから、そうは考えなかった。
飛行機はあちこちに飛んで、その窓はさまざまな時間やさまざまな気候の世界各国を映している。

朝がギリシャで夕方がフランスなら、そこから中国の方に行くには方向が逆になる。ヨーロッパ・ヨーロッパときてアジア、時刻・時刻ときて天気のことに変わるあたりに飛躍がある。

景色をうつす窓に注目したところ、まるで小さな窓のなかにあらゆる世界とその表情があるかのようにとらえたところに発見がある。と読んだ。

窓の小ささと世界の広さとの対比。
飛行機乗って思ったんだけど、これだけすごいいろんな景色広がってるのに、窓が小さくて窓側の席じゃないとほとんど景色が見れない。




目薬をこわがる妹のためにプラネタリウムに放て鳥たち/穂村弘『シンジケート』

という歌、小高賢さんも大松さんもまったくわからないという。オレは考えてたらわかった感じになって興奮したからそれを書いていく。

目薬をこわがるってどういう状態ですか。オレもこわかったんだけど、目薬をさすその時になると目が開けられない状態ですよ。
そのために何かするというのなら、それは目を開けたくなるような何かです。

プラネタリウムに鳥が放たれたら素敵でしょうね。目を開けてそれを見たくなるでしょうね。

じゃあなぜ鳥を放つのか? いやいや、目薬といえば鳥を放つあれに決まってるじゃないですか。ロート製薬の。

目薬を主力商品とするロート製薬は、コマーシャル(ただしくはアイキャッチというらしい)で、40年以上にわたって白い鳥がとびたつ場面をテレビで放送させ続けてきました。目薬といえばロート製薬だし、ロート製薬といえば鳥がとびたつところなんですよ。世代のアレがありそうですが。

YouTube貼る。「ロート製薬 歴代オープニングキャッチ」 http://t.co/tT3a0QzUZD こんな感じでいつも白い鳥がパーッと飛んでるんです。

じゃあなんで本当の空ではなくプラネタリウムなのか? それは、プラネタリウムを黒い目に見立てているからです。真っ暗なプラネタリウムに白い鳥が放たれる。そのようすが少女漫画のキラキラした大きな目のようなんです。目薬をこわがるのが妹=少女である必然性はここにあります。
で、少女漫画のように大きな目をさせれば目薬ができると。

少女漫画だから目がでかいとか、目薬といえばロート製薬だとか、ちょっとずつ古いような気がする。妹に目薬させよう、とかも。そういう意味ではこれだって昭和の回想みたいな歌ととれる。




なめかけの飴をティッシュの箱に置きついに住まない城を想えり/雪舟えま『たんぽるぽる』

→飴を城の尖塔に見立てる大松さんの読みに、なるほど! と思った。

そのうえでオレの読みも書いてみる。

「ついに住まない」ということは、住もうと思えば住める立場にあり、住むかどうか検討したけど、やっぱり住まなかった。ととれる。
飴はそれに対応する。途中までなめて、やっぱりやめようというのなら、捨てたらいいんだ。ティッシュがあるならティッシュにくるんで捨てたらいい。だがそうしない。
置いておいて、その気になれば食べれるようにはなってるんだけど、やっぱり食べないでしょうね。
はじめは魅力を感じキープはするけど、やらない。そういう飴があり、城もある。
飴ひとつぶにとってティッシュ箱の上がふさわしい場所でないように、人ひとりが住むのに城はふさわしくない。
城に住むことができるなんてすごいし、そこに非日常のおもしろさがある。

城のでかさと飴の小ささのギャップ。

でも全然そうじゃないような気もしてきた。自分には全然縁もゆかりもない城がどこか彼方の地にあり、そこに自分が住むことは永遠にないと。
それだとかわってくる。
はるか彼方の巨大なものと、目の前の小さなもの。
かかわりがない、自分とは合わない、ということでは一緒だと。

飴ってだいたいカラフルっていうか、鮮やかな色合いだよなあ。ティッシュの箱もわりとそう。
であるならば、言われている城は古いヨーロッパの城とかじゃなくて、テーマパークにあるような派手な城かもしれないなあ。

ぶれまくってるなあ。「読めない」って実はこういうことかも







書評のページに面白い歌がいくつかあった。


背伸びする気分少しはあるだろう花咲く前の大根だもの/浜名理香『流流』

→なんか大根が年頃の女の子っぽい。かわいらしい。「だもの」がそう思わせるんだろうか。



ひとたびは〈世界〉に銃を向けしこと、たとへ玩具(おもちや)の銃であつても/高島裕『饕餮の家』

→いい意味で言ってるのか、悪い意味か。
世界と対決のひとつもできないようではダメだと思う。



オフィスに幾春秋を逝かしめておりふし聴こゆもういいよ、もう/丸山三枝子『歳月の隙間』

→「もういいよ、もう」という、すべてを絶ちきるような言葉が時折聞こえる。しかし相変わらず仕事場は忙しくがんじがらめだ。みたいなことかな。







角川全国短歌大賞の発表では次のような歌が印象に残った。


君逝きて置き所なし千羽鶴のあかいたましひあをい魂/三浦節子

→なんと切実な歌だろうか。回復を願う千羽鶴があるが、亡くなってしまったからもう置き場所がないと。ついでに言えば、千羽鶴の意味も失われてきているだろう。その鶴ひとつひとつを魂だという。そうだろう。祈りがこもっている。
下の句の表記がきれいだ。旧かなの良さだろう。



いくつものことば呑み込み会の果てあみだくじのごとうら道帰る/川出香世子



マーラーの復活を聴いて黙 す忘れてはならぬ震災の日に/橘まゆ


→これは逆選に近い気持ちで引く。
これのためにマーラーの復活を聴き直してみたが、特に両端楽章は力があり華々しく、黙祷にふさわしい音楽とは思えなかった。そもそも黙祷に音楽がいるのか。
黙祷するのは、もう戻ってこない人たちを思ってのことではないのか。彼らが復活しないからしずかにじっと黙祷を捧げるんじゃないのか。



ちなみに、わたしは馬場あき子さんの選で秀逸でした。






題詠では次の歌がよかった。

子が三位妻が四位でこそばゆし村に大声大会ありて/若山厳


ちなみにわたしの歌が最後に採用されてます。







公募短歌館では次の歌がよかった。

川原にはカイトをあげる翁いて代われとせがむ子に追われおり/川合晴司


ちなみにわたしは佳作でした。



といったところで角川短歌はおわります。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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