枡野浩一『枡野浩一短歌集Ⅱ ドレミふぁんくしょんドロップ』内容と感想

『枡野浩一短歌集Ⅱ ドレミふぁんくしょんドロップ』を読む。



きょうはラの音でくしゃみをしたいから「ドレミふぁんくしょんドロップ」は青/枡野浩一『ドレミふぁんくしょんドロップ』

→ドレミふぁんくしょんドロップがドラえもんのひみつ道具みたいという指摘をどこかで読んだが、その通りだと思う。
このドロップは、いろんな色があって、色によってくしゃみの音階が変わるらしい。

ファンクションを調べると、なんか難しい説明が出てきて余計わからない。それとくしゃみの「ハクション」を掛けている。そういう言葉の操りかたもドラえもんっぽい。

ところで、「ラの音でくしゃみをしたい」ってなんだろう。全く奇妙だ。奇妙な欲望短歌だ。くしゃみの音階がいつもと違うところで、いったい何がどうだというんだろう。面白い名前だけど、あまり実用的な道具ではなさそうだ。


ドラえもんっぽいといえば、『てのりくじら』の中にはこんな歌がある。

だれだって欲しいよ だけど本当はないものなんだ 「どこでもドア」は/枡野浩一『てのりくじら』

→えらい違いだ。ドレミふぁんくしょんドロップだって無いことにはかわりなさそうだが、どこでもドアはきつい言い方で否定されている。しつこくねだられて怒ったみたいな言い方だ。
もしかしてドラえもん本人が言ってたりして。ひみつ道具を全てなくした、もう1つの世界のドラえもんが。

どこでもドアはかなり現実ばなれしてるけど、ドレミふぁんくしょんドロップならそれほどでもない。笛の音が出るラムネとか、吸うと声が変わる気体は実際にある。駄菓子屋の隅にドレミふぁんくしょんドロップがあっても違和感少ない。昔はあやしいお菓子がいろいろあった。

そういう、不思議なのにどこかなつかしい感じもドラえもんなんだよ。タケコプターの中の竹とんぼ、タイムふろしきの中のふろしき、などなど。
ドロップなんて最後になめたのいつだろう。いろんな色のが入ってた。白が人気あるんだ確か。




遠ざかる紙ヒコーキの航跡をなぞるがごとく飛びおりた君/枡野浩一『ドレミふぁんくしょんドロップ』

→ちょっと硬めの言葉でできた歌。「遠ざかる」もそうだし、「航跡」「ごとく」もそうだ。本当に飛びおりた「君」がいたんじゃないか。君への厳粛な気持ちがあって、だから重みがあるのではないか。

近い題材の歌がほかにも見られることからも、それに近いことはあったんじゃないかと思った。例えば次のような歌がある。

とりあえずひきとめている僕だって飛びたいような気分の夜だ/枡野浩一『てのりくじら』

「僕だって飛びたい」ってことは、君が飛ぼうとしていたんだ。

ひきとめたけど、ひきとめきれなかった。そういうふうにつなげるなら、つらい話だ。

さっきの歌に戻る。なぜ「紙飛行機」ではなく「紙ヒコーキ」なのか。カタカナだ。
紙飛行機は実際には飛行機とは違ってほとんど上昇しない。下降するばかりだ。紙飛行機は飛行機よりもパラグライダーに近い。だから名前に飛行機とつくけど、実際は飛行機じゃない。
「君」が飛べなかったこと、機械じゃないことなどからこの表記になったんだと思った。

飛びおりた君と紙ヒコーキの航跡を重ねてたってことは、飛び降りるのを直接見ていたってことだよね。主体は。飛び降りる君をおそらく後ろから。あるいは、おちていく君を上から。

紙ヒコーキは軽い。カタカナにしたから余計軽い。それに対するのは人の命の重さだ。

イラストのキャラクターも軌道とともに落下している。思ったんだけど、オカザキマリさんのこのイラストは、自殺を予感させるものが目立つ。首つりみたいだったり、ギロチンにかけられてるみたいだったり、飛び降りてるみたいだったり。可愛いキャラクターだから今まで気づかなかった。




赤ちゃんのうちに手相の矯正をするのにつかう銀製の型/枡野浩一『ドレミふぁんくしょんドロップ』

→生まれてすぐにこの世の論理によって体をゆがめられてしまう。生まれたらもうこの世のルールに問答無用で従うことになる。それが本当の幸せにつながるならともかく、きわめて不確かな手相のためだという。

銀製というのは拷問用の道具のようなイメージかと思う。冷たく鋭い。

わー残酷ーってなるけど、うちの猫なんかはメスで、すぐに子どもができないように処置してもらった。子どもを産みたかったかもしれないし、それはわからない。手相よりはましな理由でそうしたつもりだけど、それも人間の側から言ってるだけのことだ。




セミくらい大きな声で鳴けたなら モラトリアムが長かったなら/枡野浩一『ドレミふぁんくしょんドロップ』

→以前もこの歌について書いたかと思う。その時は、大人になったら声を出して思いきり泣けないからセミはうらやましい、という意味の歌と読んでた。今は別の読み方もありうると考えてる。

蝉っていうのは、短歌の世界だと、はかない夏の風物詩みたいな詠われ方になりやすいんじゃないですかね。ここではそれと違う捉え方をしてみせたのでは、というのが今のオレの読み方。

上の句ではセミをうるさいものとしてとらえている。そして下の句では、モラトリアム、つまり実際に社会に出ないで準備してるっていうか引きこもってる期間が長いと言ってる。セミってうるさいしヒキニートだし、という考え方。
それで自分ももっと奔放に生きていたらどうだっただろう、と言っている。




ため息を深く深く深く深く……ついてそのまま永眠したい/枡野浩一『ドレミふぁんくしょんドロップ』

→これはよさそうな死に方だ。痛くも苦しくもなさそうだし、覚悟もいらないし。自分の中のやりきれないことやなんかを全部吐き出して、すっきりして息をひきとる。

逆に言えば、人はそういう不満ややりきれなさや吐き出せないものに生かされているのかもしれないね。




バイバイと鳴く動物がアフリカの砂漠で昨夜発見された/枡野浩一『ドレミふぁんくしょんドロップ』

塚本邦雄の『日本人靈歌』に
酷寒の母の命日 アフリカであたらしき瀑布(たき)が發見されて
っていう歌を見つけたんだけど、これ
と関係あるんだろうか。
だってこの二つの歌、「アフリカ」と「発見され」の位置が一緒なんですよ。こんな偶然ってありますか。

オレの記憶が確かなら、枡野さんはどこかで「塚本の本歌取りをしたことがあるけど指摘されたことがない」というようなことを書いてたはずだ。なんだったかなあ。
と、あれこれひっかきまわして探した。そして見つけた。短歌ヴァーサス創刊号65ページだ。
『塚本邦雄の歌の「本歌どり」をしたことがあるが、それを指摘されたことは一度もない。』
これ読んだとき、オレは「だったらオレが見つけて指摘したい」と思ったのだった。だから覚えていた。
でもこれ2003年春の本じゃないですか。かれこれ10年にもなろうとしている。その間にほかの誰かが先に見つけたのかもしれないなあ。

枡野さんはかならず「本歌どり」って書くね。「取り」と書かない理由があるにちがいない。

バイバイという鳴き声は、母を思う鳴き声なんだろうか。そんな動物が砂漠で今まで発見されずに瀑布のような涙を流していたとすれば悲しすぎる。と、二つの歌を合わせて鑑賞してみた。



以上です。
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プロフィール

工藤吉生(くどうよしお)

Author:工藤吉生(くどうよしお)
仙台市在住。2011年に枡野浩一さんの「ドラえもん短歌」の影響で短歌を始めました。

▽短歌雑誌「短歌研究」「角川短歌」などの読者投稿欄、
▽新聞歌壇「毎日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「河北新報」
▽テレビ「NHK短歌」
などで作品を発表してきました。

短歌結社「塔短歌会」に2012年から3年間所属していましたが退会し、現在は「未来短歌会」彗星集に所属しています。

▽角川短歌ライブラリ刊行記念「わたしの一首」コンテスト大賞受賞。
▽第57回短歌研究新人賞候補。
▽Eテレ「NHK短歌」年間大賞(2016年3月、佐佐木幸綱選)。

ゴールデンボンバーの歌広場淳さんにツイッターで短歌をほめられたことがあります。

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